一緒に暮らしているのに、驚くほどその人のことは分からなかった。飯島という苗字以外、なにも知らなかった。白っぽい肌に生えた無精ひげを剃れば、冗談抜きに五歳以上は若返る。そして怖いくらい、うつくしくなる。飯島さんは綺麗な男だ。
 きっと薔薇色の痣が似合うと思った。
 飯島さんの肌には薔薇色の痣が似合う。無根拠にそう思っていた。ブラックバカラのような、血に似た赤黒い痣は、きっとこの白い肌には映えるだろう。青黒いまぼろしの薔薇のような色の痣もいいんじゃないだろうか。


 ベッドで飯島さんが眠っている。死んだように目を閉じたまま、細い寝息を立てて、眠っていた。俺は彼を散々打ちすえて、痣だらけにしてみたい。飯島さんは年下の俺をどこかで子供扱いしていて、自分が常に優位に立って俺をからかう目つきで見ている。もしもその俺が、飯島さんに向かって牙をむいたら彼はどうなるだろうか。驚くかな。飯島さんでもプライドが傷ついたりとか、するかな。そもそも飯島さんにそんなものあるのだろうか(ない気がする)。
 どちらにしても分からない。俺は飯島さんが泣いたり怒ったり焦ったり困ったり、ありとあらゆるマイナスの感情を見たことがないのだ。思い出せるのはいつものように、どこか浮遊したまま着地することのない、重力のない笑みだ。

 ベッドで飯島さんが眠っている。死んだように目を閉じたまま、細い寝息を立てて、眠っている。死んでいればいいのに。死んでくれていれば、自分は痣を刻むことをためらわないのに。(死んだ人に痣なんて、つかないかな)
 飯島さんは目を覚まさない。死んだように眠っている。こうして馬乗りになっても、眠っている。飯島さんの痛みを想像する。俺が泣きそうになっても飯島さんは眠っている。拳をぎゅっと握りこむ。飯島さんは死んだように眠っている。
 俺は拳を振り下ろした。飯島さんは生き返ったように目を覚ました。手は止まらなかった。



 頬をえぐる鈍い音を、耳よりも手で感じた。ベッドごと、身体が振動してゆれた。飯島さんは寝ぼけた表情のまま、首だけが真横に向いて壁をぼうっと眺めていた。生気がなかったので、本当に死んだかと思って、俺は怯えた。だが飯島さんはふいにプッと血の混ざった唾液を吐き出す。口の中を切ったのだ。たらりと口の端を流れた薄い血を、俺はなにも考えずに、考えないようにして舐めとる。

「いって」

 やっぱり飯島さんは飯島さんのままだ。いつものように薄く笑いながら血や殴られた痛みすら面白がっている。俺は飯島さんの血の味を口の中で飲み込まずにいながら頬に視線を落とした。赤黒い痣が浮かんでこればいい。飯島さんの綺麗な肌に、薔薇色のあざが浮かんでこればいいと望む。俺は頬を撫で、ごくりと喉を鳴らして血を飲んだ。